静寂に包まれた摩天楼。
一際高く聳え立つ塔。
…その最上階。まるで台風の後の様に荒れた広い空間にて。管理者は、手元の文字列を瞳に映していた。
「人魚姫は、泡になって消えてしまいました……か」
ぽつりと呟き、管理者は本を閉じる。まだページは残っているにも関わらず…これで幕引きだとでも言うかの様に。
管理者の指先から離れた本は、床を覆っている物語の海に紛れる。
…忽然。水を纏う女神が姿を現した。
「感情に振り回されて、大切な人を奪われて、最後は自ら命を絶つ…最高のハッピーエンドだねぇ」
心底愉快だと言いたげな感想に、管理者は眉を顰めた。女神から顔を背けた管理者の口元には、いつも携えている笑みは見当たらない。しかしそれを自覚したのか、管理者は口の端をそっと上げ…女神に向き直る。
「何の用だ」
「一つ、報告をね」
女神の口から紡がれた事実。
それは…管理者を絶望へと突き落とす一言だった。
「識別番号960が、人間と逢瀬を繰り返している」
識別番号960。
それは管理者が一目置いている、忠実な死神だった。
「…つまらない戯言はやめろ」
「嘘ではないさ」
女神が指を鳴らす。途端、管理者の眼前に映し出されたのは…白い髪の少女と、管理者がよく知る黒い死神だった。
青空の下。白ユリに囲まれた庭園で、手を繋いで歩いている。
「悪趣味な幻影だな」
「あは!そうだったら良かったね。でも残念…これは中継映像だよ」
見たくもない光景。
しかし、管理者は目を離せずにいた。
「…いつからだ」
女神は答えない。ただ、静かに笑みを深くしただけだ。意味深な反応が管理者の不安を後押しする。
管理者は記憶を手繰り寄せるも、思い当たる違和感は見つからない。長年見てきた960の変化に気付けなかった事実が、重くのし掛かる。築き上げたプライドに、確かな筈の信頼に…明確な亀裂が入る。
「ねえ、どうする?このままだと、キミのだぁいじなお人形…この子に取られちゃうんじゃない?」
女神は口元を袖で隠し、心配する素振りを見せつつ問い掛ける。
管理者は答えない。
だが管理者は…人間の醜さを身を以て思い知っている実験体は、とうに結論を出していた。
960は小娘に誑かされている、と。
任務を終えた960は、真っ直ぐに管理者の元へと向かった。『欠陥品』の魂を渡す為だ。
「識別番号960、帰還しました」
「…おかえり」
「識別番号564の処分、完了しました」
「ありがとう。では、魂を私に…」
僅かな変化も見逃すまいと、管理者は960を注視する。
相変わらず表情は無く、言葉は機械的だ。
冷酷で無慈悲な死神殺しとして、完成された姿だ。
しかし。
管理者は小さく息を飲む。
…これまで960は、本の山に腰掛けている管理者の元へ近付く際、床に乱雑に散らばっている本を気にも留めずに歩いていた。まるで存在していないかの様に。認識していないかの様に。構わず踏み、蹴り飛ばし、一直線に最短距離を歩いていた。
そんな960が…落ちていた本を、避けたのである。
自身の変化に気付く様子もなく、960は懐から取り出した魂を管理者へ差し出した。
「こちらです」
管理者は、960の右腕…厳密には、右腕に巻かれた包帯に視線を落とす。以前960が怪我をした際、管理者が手当てした時のものだ。
もうとっくに治っているにも関わらず、960が包帯を取る気配は無かった。『包帯を取りなさい』という命令を受けていないからだ。加えて、960は怪我を負った事を管理者に報告しなかった。死神に許可されている発言内容に、怪我の有無は含まれていないが故に。
…少女との事も960にとって同じ事なのだろう。隠そうと思って隠している訳ではない。わざと黙っているのでもない。
発言許可が出ていない。それだけの事。
裏を返せば、聞けば必ず返答が来る。あの少女は誰だ。全て話せ。管理者はただ、そう命令すれば良いだけだ。
だが。
「(…出来ない)」
青い瞳が、揺れる。
「(怖い)」
本人の口から聞いてしまえば、仮説が真実となってしまう。故に管理者は危惧したのだ。変わる筈の無かった日々が、世界が…崩れてしまう事を。
唯一信頼していた960が『欠陥品』に堕ちてしまったと、認めたくなかったのである。
「960」
呼ばれた死神は目を逸らす事なく、真っ直ぐに管理者を見つめた。
管理者は命令を紡ごうとするも…音には、ならない。
自らの意思で白い少女の元を訪れているであろう960に、もうあの少女と会うのはやめろと命令した所で、果たして従うだろうか。そんな疑念に駆られたのだ。
「…下がりなさい」
「はい。失礼します」
960は着実に変わり始めている。手を打つならば早い方がいい。
そう判断した管理者は、虚空へ呟く。
「…イオニア」
「なんだい」
「あの小娘の、名を教えろ」
管理者の死角で、女神は小さく肩を震わせる。それから何食わぬ顔で頷いた。
「いいとも」
管理者はデバイスを取り出し、メッセージを綴る。少女の顔写真を添えた、至極簡潔な命令を。
祈る様に。縋る様に。願う様に。
頼む。またお前を信じさせてくれ。
その一心で、送信する。
『リリィ・ベネットを殺せ』
死した人間の魂だけを集めさせていた管理者が、初めて生きた人間の命を奪うと決めた…特例。
会うなと言っても会う可能性があるのなら、いっそ会えなくしてしまえばいい。
そうすれば悩みの種は無くなる。元通りの関係になれる。ハッピーエンドを迎える事が出来る。
管理者は信じていた。否…信じたかった。
960が忠実な部下として、命令に従ってくれる事を。
自分を…選んでくれる事を。
「…泡となった人魚姫は、風の精霊となり…人々に幸せを運び続けました」
オルカが最後の一行を読み終えると、傍らのクロウが感嘆の溜息を吐いた。
「凄いなぁ、人魚姫は…。自分は辛かったのに、皆を幸せにする道を選べたなんて。尊敬する」
本を閉じたオルカは、クロウの反応に微笑む。それから…感慨深そうに呟いた。
「こんな、結末だったんだ」
かつて、管理者が途中で読むのをやめた物語。
それをオルカは見届けた。大切な人を殺すくらいならばと自らが犠牲になり、泡になって消えた悲劇の女性の末路を。
「人魚姫と言うから、美味しそうな魚の話なのかと思っていたが…全く違った!目から鱗だ!」
「ふふ。魚なだけにね」
「む…!上手いなオルカ」
「それはどうも」
…此処は、とある図書館。
二人旅の最中立ち寄った場所で、先程までオルカは、クロウにせがまれた人魚姫を読み聞かせていたのだった。
人間界の文字は、冥界の文字とよく似ている。人間達が人間界に移り住んでからの歴史の中で、多少変化はしていたものの…リリィの指導もあり、オルカは難なく文字を読める様になっていた。
「なんだか懐かしかった。オルカに本を読んで貰うのは」
そう言ったクロウは、嬉しそうに微笑む。
「昔、沢山してくれてたよな」
冥界での出来事を指していると、オルカはすぐに察しがついた。
管理者は960を自室に招き、読み聞かせをした事が多々あったのだ。
「…ただの気まぐれだよ」
「オルカ楽しそうだったぞ?」
「うるさい」
「えっ…俺、大きな声で喋ってたか?」
「もういいよ馬鹿」
「なんでー!?なんで怒ってるんだー!?というか俺は馬でも鹿でもないぞ!?」
本を手に立ち上がったオルカを、クロウは慌てて追いかける。そして覗き込んでオルカの表情を確認した途端、ほっと胸を撫で下ろした。
「なんだ。怒ってなかったのか」
「…怒ってるなんて一言も言ってなかったでしょ」
「照れてたんだな」
「クロウ」
「可愛いな、オルカは」
「黙りなさい」
「やだ」
「こいつ」
当たり前の様に命令を無視するクロウに、オルカは苦笑する。
命令を無視されても不安にならず、不快にもならない。信頼は…揺るがない。
オルカはもう、それを知っているのである。
「リリィは今頃学校だろうか」
「そうだね。もうじき下校時間かな」
「じゃあ会いに行こう!」
「また宿題の邪魔するつもり?」
「え!?そ、そんなつもりは…」
クロウの視線が泳ぐ。
リリィはクロウとオルカが訪問すると、全ての事をほっぽり出して二人の為に時間を割く。宿題も例外ではない。
決してリリィが不真面目だからではなく…二人を愛しているからこその優先順位だ。
「私だってリリィに会いたいさ。でも、あの子にはあの子の生活がある。それを忘れてはいけないよ」
「うう…分か…りたくない…けど…っ…分かった…!!」
「偉い偉い」
ギギギギ…と首を動かして頷いたクロウの頭を、オルカはコートの袖で撫でる。
全員で幸せになればいい。
…それは女神に一泡吹かせるべく放った宣言に過ぎなかった。
自分に地獄を味合わせた人間…ましてや大切な960を奪った相手と、管理者が仲良くしたいと思う筈がない。
故に、人間界に来て間もない頃の管理者にはこんな考えがあった。長い目で見れば、人間であるリリィは100年も経たずに死に…クロウは私のものとなる。そんな妥協と、暗い願望があった。
だが、今は違う。
不老不死の肉体と桁外れの怪力を持つ化け物を恐れもせず。凄惨な過去を抱いていた実験体を必要以上に哀れみもせず。
自分の命を狙っていた相手に…リリィは言ったのだ。
『わたしと、お友達になってくれませんか』
屈託のない笑顔で。
名前をくれた人。無償の愛をくれた人。
友人として日々を重ねる内…いつしかリリィはオルカにとって、少しでも長く生きて欲しいと思える存在になっていた。
心の、底から。
「…まあでも、少しくらいは良いかもね」
「だよな!だよな!よーし行こう!すぐ行こう!飛んで行こう!」
「私飛べないけど」
「俺は飛べる!それでオルカを抱っこする!」
「確実に悪目立ちするから却下。新聞の一面飾りたいのかい」
「それ面白そうだな」
「お前の名前、今日からホース・ディアーね」
「俺は一生クロウだー!!」
軽口を叩き合いながら、本棚に本を返した二人は図書館を後にする。
クロウがオルカのコートの袖を握ると、オルカは微笑みを携え…瞳を細めた。
泡になり損ねた冥界の主は、幸福に包まれて生きていく。愛する人の傍らで。
今日も、明日も…その先も。