子ども達が寝静まった頃。
幹月は書斎にて、執筆作業に勤しんでいた。
デスクトップパソコンを見つめる瞳は何処かぼんやりとしているが、キーボードを叩く指には明確な意志が宿っていた。
機械的な一定の速度で、次々と文字が画面に出力されていく。幹月の中でとうに物語は完成しているのだろう。原稿を綴る動作に迷いは無かった。
だが。
「幹月」
瞬時に執筆を中断し、幹月はくるりと椅子を回す。
ノックの後すぐに開かれた扉の先には、陽根が立っていた。腰に手を当てている様子を見るに…ご立腹らしい。
「仕事熱心なのは素敵な事だけど、体に障るわよ」
「そう、だよね。ごめん。夜は静かで集中出来るから…つい」
「気持ちは分かる」
あまりにも素直な肯定に、幹月は思わずといった様子で小さく噴き出す。漫画家の頃の陽根が夜更かし常習犯だったのは、彼にとってよく知る事実だからだ。
「でもね…美容の敵なのよ。ニキビできるし。隈もできるし。化粧のノリ悪くなるし」
男の自分には関係ないな…と考えた幹月の思考を読んだのか、陽根はそれからと前置きして付け加える。
「夜更かしは、寿命の前借りよ」
反論の余地も無く渋い顔で黙り込んだ幹月に、陽根は歩み寄る。それからそっと、幹月の頭を胸に抱き寄せた。
「あんたには、よぼよぼのおじいちゃんになるまで長生きして欲しいの」
心身に注がれる温もりを感じつつ、幹月は陽根に身を預ける。
「そう思ってるのは、私だけじゃないわ。破竹も、梅乃も、松和も、エオリアちゃんも…幹月の事、大好きなんだから」
幹月は思い返す。
どう接したら良いのかが分からず、不器用が祟って傷付けてしまうのが怖いと思い悩み…家族を避け、仕事に没頭していた日々を。
自分を殺し続けた過去を。
しかし…書斎に鍵を掛け、妻や子ども達の居る世界から自らを切り離していた孤独な小説家は、もう居ない。
「今日はおしまい。パソコンシャットダウンして、早く寝ましょ」
「陽根さん」
「ん?」
「…ありがとう」
目を丸くした陽根は、優しく瞳を細める。
「どういたしまして」
寝支度を済ませた二人は寝室に向かい、ダブルベッドに並んで横になる。
かつて意図的に家族と生活リズムをずらしていた幹月は、当然ながら陽根の隣で寝る事は無かった。取材という名目で長期間家を空けては、帰宅して一週間程書斎に篭って執筆し、本を完成させる。その繰り返しだった。
あの日破竹と幹月が衝突し、和解しなければ…夫婦がこんな風に同じ時間を過ごす事は、きっと。
「ねえ幹月。最近、よく破竹と執筆してるわよね」
消灯された部屋の中。瞼を閉じた陽根が口を開く。
「あの子、本当に嬉しそうよ。あんな笑顔見た事ないってくらい」
「え…!そう、なんだ…」
嬉しそうに口元を緩める幹月と対照的に、陽根は静かな声で言う。
「…あの時、父親失格なんて言ってごめんなさい」
破竹を泣かせてしまった日の事だと、すぐに幹月は察しがついた。彼の中で、忘れる筈もない出来事だからだ。
「いくらカッとなってたとはいえ、良くなかったわ。幹月なりに頑張ってるのは…知ってたのに」
「…陽根さんは、悪くない。父親失格どころか、夫としても…小説家としても、自分は失格だった。紛れもない事実だと…思っています」
言葉の力を知っているからこそ、幹月は慎重に選び…紡ぐ。
「ずっと…そんな自分を、変えたかった。だけど、どうすれば良いのか分からなくて…逃げて、いました。けれど…こんな、どうしようもない人間を…陽根さんも、子ども達も、見捨てずにいてくれた」
陽根は幹月の手を取った。
強く。けれど、優しく。
「当たり前でしょ。私達、家族なんだから。だから一人で悩まないで…ちゃんと言いなさい。いくらでも一緒に抱えてやるわよ」
「陽根さん…」
「絶対忘れないでよね。全員でチームだって事」
「…っ…、はい…っ…」
弱いのに強くて、脆いのに逞しくて…繊細で、美しい人。共に生きたいと、一目見て思わせられた人。
「(ほんと、可愛いんだから)」
月明かりの下…陽根は幹月の頭を撫でる。
彼がやがて寝息を立てるまで。まるで陽だまりの様に、寄り添い続けたのだった。